私は宮崎駿監督の大ファンですが、その息子である宮崎吾朗の作品は、実は今まで未視聴でした。
ジブリ作品はサブスクでは観ることができませんが、たまたま金曜ロードショーの録画が残っており、いい機会だと思い、観てみることにしました。
初号試写会の上映中に宮崎駿が怒って退席したという映像も残っている、この作品。
これまで長年ジブリ作品を見続けてきた者として、この『ゲド戦記』を、宮崎駿監督作品との比較も含め、徹底レビューしていきたいと思います!
(ネタバレありのレビューです)
『ゲド戦記』
2006年 日本映画 上映時間 115分
監督 :宮崎吾朗
音楽 :寺嶋民哉
原作 :アーシュラ・K・ル=グウィン
目次
あらすじ
衝動的に国王である父を殺してしまい、国を逃げ出したエンラッドの王子アレン。
放浪の旅の中、動物の群れに襲われていたところを、大賢人ハイタカに救われる。
アレンはハイタカと共に、世界の異変の原因を探る旅に出る。
登場人物
アレン/声:岡田准一
本作の主人公。エンラッドの王子。
国王である父親を殺して失踪し、放浪していたところをハイタカに命を救われ、共に旅することになる。
テルー/声:手島葵
顔に火傷のあとがある少女。
両親に虐待された末に捨てられた辛い過去を持つ。
ハイタカ/声:菅原文太
アースシーの大賢人。
真の名は「ゲド」。
アレンと共に災いの源を探る旅に出る。
テナー/声:風吹ジュン
ハイタカの昔なじみの女性。
テルーとハイタカ、アレンを自分の家に匿う。
クモ/声:田中裕子
永遠の命を求める魔法使い。
女性に見えるが男性である。
世界観は宮崎駿作の絵物語『シュナの旅』から
この映画『ゲド戦記』の世界観は、原作の「ゲド戦記」よりも、1983年に出版された宮崎駿作の絵物語『シュナの旅』を参考に作られたと言われています。
この『ゲド戦記』と宮崎駿作品の『もののけ姫』にも登場する、ヤックルの原型のような動物も登場します。
感想
ジブリ作品なのにキャラの表情はエヴァっぽい
この作品、ジブリ作品で、絵柄は完全にジブリなのですが、キャラの表情は宮崎駿というよりエヴァンゲリオンっぽい病的な印象です。
同じスタジオ作でも、演出家が代わればここまで変わるか、という印象。
宮崎駿とは全く違う個性
序盤を観ただけで、宮崎吾朗監督は、父、宮崎駿とは全く違う個性の持ち主だということがはっきりわかります。
主人公アレンに宮崎駿監督作品の主人公のような意志の強さは全く感じず、病的な「悪」の表情で戦う主人公の姿は新鮮に感じます。
「テルー」と「テナー」の問題
出番の多い2人の女性キャラ、「テルー」と「テナー」。
音の響きが似ているので、時々どちらが呼ばれているのかわからなくなるときがあります。
もっと聞き分けやすい名前にすればよかったのに。
魅力的なキャラ「ウサギ」
陰鬱とした暗いキャラが多いこの作品の中で、魅力を放つのが、『風の谷のナウシカ』に登場したクロトワによく似たキャラ「ウサギ」です。
魔法使いクモの手下の、小ずるい感じのキャラで、顔を似ていても性格はクロトワとは少し違いますが、陰鬱なこの映画に彩りをそえてくれる貴重なキャラです。
声優の香川照之の声の演技も、本当に素晴らしいですね。
声優は悪くないが・・・
まず、「スタジオジブリは声優に俳優を使わず、プロの声優を使うべき」という意見が常にありますが、私はジブリの俳優の起用には賛成派です。
プロの声優というのはアニメっぽい演技に特化しているので、どうしてもリアルではない、アニメっぽい演技になってしまい、それはジブリが目指している世界観とは異なるものだと思うからです。
さて、その俳優たちの演技ですが、この『ゲド戦記』ではどうか。
全体的に悪くありませんが、ヒロイン、テルー役の手島葵だけは「下手だな」と思いました。
もっとも彼女は歌手であり、声優どころか俳優ですらないので、仕方ないのかもしれませんが。
アクションシーンに躍動感がない
この映画、そもそもアクションシーンが少ないですが、その数少ないアクションシーンも、宮崎駿監督作品のような、観ている者をワクワクさせるような躍動感がなく、非常にあっさりとした描写になってしまっています。
同じスタッフでも、演出家が代わるとここまで変わってしまうのか、と思いますね。
ひたすら弱く、受動的な主人公アレン
この映画における主人公アレンは、自分の意志というものが見当たらず、ひたすら周囲に流されるままに動き、ひたすら弱いまま、物語は続いていきます。
私は原作は未読ですので、原作の主人公がこんなキャラなのかはわかりませんが、宮崎駿が手掛けたなら、絶対にこんなキャラにはならないはず。
最後に覚醒して、強くなったように見えますが、それもヒロイン、テルーに尻を叩かれて叩かれて、ようやく、といった印象です。
この周囲に流されるままに生きる受動的な主人公アレンの姿は、監督である宮崎吾朗の人生そのものなのでしょうか?
スケールが小さすぎる物語
この映画、最初の30分ほどは新たな土地に向かっての旅が描かれ、これからどんな冒険が待ち構えていいるのだろう、というワクワク感がありますが、それ以降はひたすらスケールの小さい話になっていきます。
後半の登場人物は、悪役であるクモの名もなき手下たちを含めても10人程度。
その10人でひたすらワーワーやってるだけのお話です。
魔法の剣の意味があまりない
この映画の序盤から登場し、「鞘から抜けない剣」として、物語を先に進めるための需要なキーとしての役割を担う重要なアイテムである「魔法の剣」。
クライマックスで主人公アレンはずっと抜けなかったその剣をついに鞘から抜くことに成功しますが、その剣の活躍はクモの手下の剣を折り、クモの片腕を切り落とした、だけ!
抜くまでひたすらじらしまくった割には、しょぼすぎる活躍です。
クモを倒したのもその剣ではなく、結局はドラゴン化したテルーです。
なぜテルーが覚醒してドラゴンになったのか、説明も、きっかけも、前兆も、何もない
クライマックスでテルーが突然覚醒してドラゴン化しますが、それに対して何らの説明も、きっかけも、そしてテルーが竜の一族だという伏線も、前兆も何もありません。
あまりにも唐突すぎる展開でした。
あれをやるなら中盤の日常パートのところで、アレンがテルーに竜の姿の幻覚を見る、などの伏線を入れるべきで、そういうものが全くないのは、ラストの展開に困って土壇場で思いついた設定としか思えません。
宮崎吾朗作品にヒロインは必要ない?
この映画を観て、主人公アレンとヒロインのテルーの顔や性格が似すぎだと思いませんでしたか?
宮崎駿作品におけるヒロインの存在は、宮崎駿自身が守りたい、守るべきだと思っている理想の女性像であるのに対し、この映画のヒロイン、テルーは、宮崎吾朗自身の分身のように見えます。
つまりアレンとテルーは宮崎吾朗自身を2つに割って生み出した同じキャラクターであり、同一人物だということもできます。
アレンとテルーの関係が恋愛に発展する感じをまるで受けなかったのも、それで納得できます。
『ゲド戦記』は宮崎吾朗の人生そのもの?
あまりにも立派な、人々に尊敬される国王である父親は、完全に宮崎吾朗の父、宮崎駿そのものでしょう。
その父を殺して王位を継ぐことを拒否し、逃げ出した弱い主人公アレンは宮崎吾朗そのもの。
父殺しは宮崎吾朗の願望。
彼を優しく導くハイタカのモデルはプロデューサーの鈴木敏夫でしょうか。
主人公でありながらひたすら周囲に流され流され、やっと覚醒して剣を抜いたと思ったら、美味しいところはヒロインにかっさらわれる主人公アレンの姿は、宮崎吾朗の人生そのものとしか思えません。
なぜ宮崎駿は怒って退席したのか?
現在もYoutubeで観ることができますが、宮崎駿がこの「ゲド戦記」の初号試写会で、不機嫌になって途中退席してタバコを吸いに行ってまた戻る、という映像が残っています。
なぜ宮崎駿はこの映画を観て、不機嫌になったのでしょうか?
主人公が根本的に弱い
主人公アレンは弱い人間です。
弱さにも二種類あって、一つは今弱いけれども強くなろうとしているという、状態としての弱さ。
そしてもう一つは強くなろうという意志もない、根本的な弱さ。
アレンは後者にあたるキャラで、宮崎駿は主人公アレンの根本的な弱さに、自分の息子の姿を見て、不機嫌になったのだと思われます。
上映後の宮崎駿の言葉
「俺は自分の子供を見てたよ」
「大人になってない」
「それだけ」
まとめ(観る価値は、ある!)
結構駄作という評価も多いこの映画『ゲド戦記』ですが、初めて観た感想は、たしかに完成度は低いが、そこまでつまらないわけではなく、スタッフがほぼ同じでも、演出家によってここまで変わるのだ、ということを知ることができる、という意味で、観る価値のある作品だという評価です。
主人公アレンのキャラクターはパズーというよりもエヴァの碇シンジに近く、ジブリがエヴァをやったらこうなるのだ、という少し新鮮な驚きがありました。
それにしても、日本でジブリ作品を観るにはテレビの放送を待つか、あるいはDVD購入かレンタル、という前時代的な状態が続いていますが、いい加減配信で観れるようになってほしいですよね~。
(関連記事)
・【感動のラストシーン】アニメ『ボスコアドベンチャー』の感想・レビュー
・映画『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』をアマプラで観た感想・レビュー(ネタバレなし)
・『映画 ゆるキャン△』をアマプラで見た感想(ネタバレあり)
・【傑作】Netflixアニメ『ブルーアイサムライ』を観た感想・レビュー(ネタバレなし)